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第七章 暗号の栞

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-16 11:03:47

 その夜、ロワールの森は轟音に包まれていた。

 大西洋から流れ込んだ低気圧が猛烈な嵐となり、古城を根こそぎ揺さぶっている。

 窓ガラスを叩く雨は、もはや液体ではなく無数のつぶてのようだった。時折、闇を切り裂く稲妻が、アトリエの無機質な空間を一瞬だけ青白く照らし出し、すぐにまた深い影の底へと沈める。

 透子は自室には戻っていなかった。アランからの「部屋で待機せよ」という命令は、もはや彼女にとって守るべき規律ではなく、破るために存在する薄い膜でしかなかった。

 地下アトリエの作業台。

 無影灯の白い光の下で、透子は顕微鏡を覗き込んでいた。

 目の前には、背表紙を剥がされ、背骨を露わにした『マルキ・ド・サドの祈祷書』が横たわっている。

 透子はピンセットを手に、本の背にこびりついた古い膠と、補強用の芯紙を慎重に除去していた。

 通常、十八世紀の製本において、背の補強には反故紙や書き損じの手紙が再利用されることが多い。修復師にとって、そこは歴史の堆積物が眠るタイムカプセルであり、過去の職人の息遣いが聞こえる場所だ。

 だが、今夜透子が探しているのは、歴史的遺物ではない。

 アラン・ド・ヴァルモンという男の、隠された意図だ。

 昼間、彼が落とした一滴の血。その味が、透子の舌の上でまだ鉄錆のように燻っている。彼の身体が発していた、死にゆく星のような崩壊の熱。

 ――彼は何かを遺しているはずだ。

 あの用意周到で、傲慢な支配者が、ただ黙って消え去るわけがない。彼は必ず、自分の不在を埋めるための「楔」をどこかに打ち込んでいる。

 作業を進める透子の指先が、不意に止まった。

 違和感。

 何層にも重ねられた補強紙の最深部、本の中身と背表紙が接するギリギリの場所に貼られた一枚の紙片。

 その質感だけが、周囲の十八世紀の紙とは決定的に異なっていた。

 指の腹で撫でる。

 微かなざらつきと、湿り気を吸い込むような弾力。これは当時の手漉き紙ではない。現代の最高級コットンペーパーだ。

 透子は息を呑み、その紙片にメスを入れた。

 癒着した部分を傷つけないよう、皮膚移植の手術
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